佐藤亜紀『ミノタウロス』読解メモ(2014年)

2021年9月、このたび『ミノタウロス』が角川文庫から刊行されたのにあたり、2010年〜2014年に旧サイト(サービス終了につき消滅)に投稿した文章の一部を再掲しました。7年後の今はまた少し違う読み方をするところもあるのですが、当時の読みの記録として。

7年後の「今」の読みとしては

なお今回の再掲にあたり、リンク先、引用元、本書出版元等を修正しました。


佐藤亜紀『ミノタウロス』読解メモ(2014年)

佐藤亜紀の長編小説『ミノタウロス』について、私がこれまでに書いた読書メモ・読解・感想を下記にまとめてみました。

ミノタウロス (講談社文庫) Yukako MATSUMOTOさんの感想 – 読書メーター(2013年2月)

何回目かわからないけどまた読んでみた。この小説が描いているものは私にはこんなふうに見える。…時代的な背景もある厳しい社会情勢に抗って少年たちが生きるために暴力をふるい非道なことをしてもなお生きようとし、しかしやはり力が足りず大人に殺されてしまう、人々が殺し殺される社会。いつ読んでも、いまのどこかここかに必ずあてはまる。

小説『ミノタウロス』について

佐藤亜紀『ミノタウロス』(講談社、2007年/角川文庫、2021年9月)

十九世紀末から二十世紀初頭、ロシア革命前後の南ウクライナを舞台とした小説。

若き主人公ヴァシリが、自分が破滅していくことを知っていながらもどんどん墜ちていくお話である。人間性を放棄しながらもどこまでも人間である部分、破滅の騒々しさと虚無の美しさ、墜ちていく感覚のめまいと絶望感。

感情が暴走する。行為が爆発的に起こる。事件が偶発的に起こる。実際に爆発もする。

この時代からさらに年月も国境も経て、55年体制も終わり、さて、現在を生きる私は人がゴミのように大量に死んでしまうことも、阪神・淡路大震災で都市が脆くも崩れ連綿と続いていた日常の暮らしと街が突然変わり果ててしまうことも知っている。ヴァシリたちと私はどう違うのだろうか?

何者でもないということは、何者にでもなれるということだ。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.218

それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行われることだ。こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、何だって今まで起らずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、徒党を組めば別な徒党をぶちのめし、血祭りに上げることができるのに、これほど自然で単純で簡単なことが、何故起こらずに来たのだろう。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.221

こいつまだ生きてるじゃん、と愚痴るウルリヒに、持ち物だけ取っとけ、と言いながら、ぼくは、長くなった影と辺りを朱に染める太陽を見遣り、天から見下ろすように、転がっている死体や半死人と動き回るぼくたちの姿を眺める。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.222

──それを眺めていると、人の一生は長い仮装行列のようなものに思えてきた。種々様々の鮮やかな衣装を一行に着せてやるのは運命フオルトウーナだ。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.262

人間を人間の格好にさせておくのが何か、ぼくは時々考えることがあった。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅵ p.326

小説『ミノタウロス』はいつの時代の話?

主人公ヴァシリたちが関わることとなった農民反乱軍のモデルであろうマフノ運動に伝染病(本作ではチフスと記されている。角川文庫『ミノタウロス』p.295。以下、記載しない場合は全て同書からの引用)が流行した1919年秋〜初冬、彼ら反乱軍の「栄耀栄華の終り」(p.294)となってしばらくで小説『ミノタウロス』の結びがある。また、

一九一九年八月二四日午前六時少し前、ヴォズネセンスクの北東三十ヴェルスタで撃墜された無名の飛行士。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.269

ウルリヒとフェディコが空中戦で敵に「舐められ」て助かった出来事。

この記述から考えると、やはりこの小説の最後は1919年初冬、ということになろうか。


主人公ヴァシリ・ペトローヴィチ・オフチニコフ(フルネーム名+父称+姓、これでいいのかな。作中に出てくるのは名+父称)が生まれたのは1901年か(cf. http://togetter.com/li/21987 )。父称がペトローヴィチであることから、作中には書かれていないが父の名前はピョートルなのであろう。兄の名前はアレクサンドル(明示されるのはp.150)。母の名の記述はない。

ちなみに、ヴァシリ、ウルリヒ、フェディコの3人がチフスに罹らなかったのはウルリヒが清潔好きで虱ったかりを毛嫌いして風呂だの水浴びだの石けんだの清潔な寝床などを保っていたからですね。彼ら三人、「一味」とは別のところで寝ていたし。虱を嫌うウルリヒの様子は繰り返し書かれています。

チフスと大陸、特に戦場での蔓延、虱駆除…は歴史の定番ですよね。で、ウルリヒがやたらきれい好きで、虱が嫌いで、風呂や水浴びなどを強制させる。最初たんに彼の性格を示すエピソードかと思ったけど、チフスが出てきて、ああそうかそのための繰り返し描写だったのかと

http://twitter.com/snowystreet/status/18355748624

破滅、「戻って来ない」人間

方々では地主屋敷が焼け落ちていた。畑は刈り取りもされないまま立ち枯れていた。何度も略奪に遭った村や百姓屋は放棄され、住人は立ち去った後だった。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.272

熊手で地面を引っ掻くようにして、ぼくたちは東へ、ドニエプル川の河畔へと移動した。爪に引っ掛けられた後には、何もかも剥ぎ取られ、住民さえいなくなった村が残った。それでも、ぼくは知っていた──村の住人はいずれ戻ってくる。戻って来ないのは、クラフチェンコやグラバクやぼくたちのように成り果てた人間だ。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅴ p.273

主人公ヴァシリの故郷、南ウクライナのほぼ中心にある小さな村ミハイロフカの光景は牧歌的に美しく描かれる。「戦争」が始まってもしばらく、機関銃が使われる(p.119)までは。

本来は小麦が豊かに実る穀倉地帯であるウクライナが内戦によって荒廃していく。戦死者だけでなくやがて餓死者も出る。占領していたオーストリア軍の撤退、第一次世界大戦、ロシア革命……これらにともないウクライナは内戦状態に陥り、政府、「支配者」はめまぐるしく移り変わる。

ヴァシリはそんな豊かなウクライナの田舎地主の次男坊の「若様」だ。あと十年もすれば(二十代中頃)「教養と知見を広めるための旅」(p.32)に出てロンドンやペレルブルクで過ごすこともごく自然に考えることができるような、そのくせ、そんな成り上がり地主の虚栄の贅沢、日雇いや労働者を踏み台にした欺瞞的な豊かさ、地に足のつかない贅沢な暮らしを冷めた目でも見てもいる(でも彼の行動様式は自動車をぽんと買ったり贅沢なのだ!)。

だがヴァシリがそんな生活が壊れたとき─自ら破壊し、もしくは破壊せざるを得なかったわけでもあるが─、やがてすべて崩壊した後は、その飽き飽きしていた虚栄と欺瞞の、だが穏やかな地主の暮らしが彼にとって憧れの、懐かしいものとなっていることに気付く(p.313, p.317)。

兵隊はやって来ては去って行くだろうが、何、ああいう連中のことは判っている。彼らは過ぎ去っていくものであり、ぼくたちはただ根刮ぎにされないよう踏ん張って、頭を垂れていればいいのだ。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅵ p.316

ヴァシリが破滅に至った理由、また、ウクライナを破壊したものは二つある。

一つには戦争。

権力の空白地帯に暴力が絶えず侵入し、蹂躙された場合にはどういった事態が起こるのか。巻き込まれた人々たちはどう行動するのか、またはどう運命づけられているのか。その無秩序な状況、たえず生命の危機に晒されているときに人間の尊厳は保たれるのか。人間は人間たり得るのか。

二つめ、そしてヴァリシ本人と直接に繋がるものはファム・ファタール、運命の女との出会い。母やマリーナがそうだった。彼女たちは父、兄、シチェルパートフ(『近郷近在では一番の土地持ちである大旦那』p.17。ヴァシリの父を見込んで地主仕事のいろいろを教えた男)その他を破滅に至らしめた。

「iPodを持った難民」

佐藤亜紀さんの先般の明治大学特別講義の第1回で、「ボスニア紛争でipodを持った難民、ベンツで避難する難民が出てくる」、それで「我々と同じ、我々が内に入ることができる」状況を目にする、それで想像力の質が変わる、「我々のすぐそこに」「我々の世界の中にいきなり出現する」、「我々は安全圏から眺めているのではない」「我々自身が難民になる、いつ何があるかわからない」「我々が(紛争地に当事者・住民として、iPodを持った難民として)放り込まれて存在しているかもしれない想像力」…というお話があった。

佐藤亜紀の『ミノタウロス』はそういう「もし我々だったらどうするか?」といった教訓じみた物語では決してないけれど、主人公ヴァシリは地主の息子としてそれなりに裕福な暮らしをして、自分もそのうちに地主を継ぐのだ、と知らず知らず思っていた。それが革命、内戦、戦争であっけなく崩れてしまう。

父の遺産で成人すれば受け継ぐはずの農園は強請まがいのカタになっていたり社会情勢もあいまって、「形」も(放火)、権利そのものも、そっくり失われてしまう。贅沢な品に囲まれてぬくぬく暮らしていたヴァシリは人を殺すに至り、直後、毛皮のコートを着たまま放浪する「運命」に陥る。突然の大転換。

ドストエフスキー、十九世紀、二十世紀

  • 作中に出てくる「セルバンテス」「行列」、といったキーワード。ここからも、セルバンテス、行列、カーニバル、バフチン、ドストエフスキー……と、改めて『ミノタウロス』とドストエフスキーとの関連づけて考えることも出来る。読の道筋としては単純に過ぎるだろうか。
  • 帝政ロシアの貴族だったトルストイは街道沿いにトルストイそっくりの子どもが200人いるといわれてた。とか米原さんのエッセイか週刊朝日百科「世界の文学」で読んだっけ。性欲…若かりしころ、農奴の娘が抵抗できないのをいいことに。『ミノタウロス』の兄などのエピソード、「地主の若様」が被る。
  • 『ミノタウロス』で地主連中の女漁り、手ごめ、というのは、少し前の時代であれば(19世紀であれば)それなりに許されていたしそれが可能だった。が、ヴァシリの20世紀ではもうそういう時代じゃなくなっていた…という読み。/農奴はもういない、とか、村の小屋に住む娘と若様の話(p.315)とか
  • 『ミノタウロス』で兄ちゃんとヴァシリがやりだした時期のずれというか、その間に時代断絶、世代断絶、社会情勢の変化があったということじゃないかなあと。
  • ヴァシリの七つ年上(p.21)の兄は19世紀のルール?でいけた(許された)人、1901年生まれと思われるヴァシリは頭の中味は19世紀なのに実行できるようになると時代は20世紀で間に合わなかった人。

ミハイロフカ Михайловка

農地の端を流れる川に沿って暫く自動車を転がすと、流れは急に淀んで池になり、湿地になり、その向こうには木立がある。昔はよく釣りに来た。小魚を狙って鳥が集まった。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅱ p.79

1913年─第一次・第二次バルカン戦争終結、1914年7月第一次世界大戦勃発の前年─、「架空の地名」ミハイロフカはこの近辺だと思われる(角川文庫p.5、『ウクライナ地方の地図』のミハイロフカの位置から推察)。天使・聖ミカエル(ロシア語でミハイル)+フカで「ミハイロフカ」だろうか。

南ウクライナ、キロヴォフラード州(wikipedia:キロヴォフラード州)。作中に頻出するミハイロフカの近くの街「エリザヴェトグラド」は後に何度か改称、キロヴォグラード(ロシア語)から1991年ウクライナ独立後はキロヴォフラード(ウクライナ語)に。草原の訛り、の地域のようだ(cf. wikipedia:ウクライナ語)。ただし、ヴァシリやその周りの人間…農場主の第二世代たちは訛りは「欠片ほどもな」かった。「そもそも土地の人間ではなかったからだ」。(p.21)

以上は小説『ミノタウロス』における「架空の地名」ミハイロフカの話。ミハイロフカ Михайловка、という地名自体はロシアに実在するし、佐藤氏によれば

  • ざらにある地名なんで使いました。

とのこと。

ミノタウロス Минотавр

表題になっている牛頭人身の怪物「ミノタウロス」は誰なのだろうか。夏ごとに多くの日雇い女と交わりのち戦傷で顔に傷を負ったヴァシリの兄にも重なるし、なによりもミハイロフカを離れた後、迷宮(wikipedia:迷宮)のごとく南ウクライナを円形にさまよい逃げ惑うヴァシリに重なる。ヴァシリはまた、円のごとく永遠に続くように思われた地主、農家の暮らしに、それが破壊されたあと懐かしく思い出すのである。人間の暮らしもまた円形では、とも考える。

地平の円、それを打ち破れるロケット、飛行機。

親父の畑を思い出した──親父がヴォズネセンスクで思い描いていた畑だ。ミハイロフカでも、ここでも、ぼくの世界は円を描いてぐるぐる回っていた。一年が過ぎた後には同じ一年が来る。播種。雪。雪解け。麦が芽吹き、雇い人たちがやって来る。刈り取り。打穀。播種。円が解けてどこか遠い場所に向かって伸びて行き、その先で何かが実現することなど考えたこともなかった。

ぼくは漆喰の欠片を取って地図を書いた。いい加減なドニエプル川と、いい加減な黒海と、もっといい加減な国境線だ。どこまでも平坦な世界を、半ば放棄され半ば耕作の続く畑と、雑木の木立と、荒蕪地(ステップ)とが覆い尽くし、村が蹲り、時折都市が灰色に身を擡げ、川と水路が淀んだり幅を広げたりしながら粗い網の目のように走る。そこでは、人間は永遠に円を描いて暮らす。

『ミノタウロス』(角川文庫)Ⅵ p.313〜338

参考にさせていただいた書評・感想

この小説の基本的な構造、重要なイメージを把握するには下記2つを必読。

資料などのクリップ

乗り物、動き、記述

『ミノタウロス』にはたくさんの乗り物が出てくる。馬、馬車、自動車、橇、タチャンカ(機関銃搭載の馬車)、鉄道(貨車、客車、装甲列車)、飛行機。ちなみに小説内で主人公たち3人組が奪うタチャンカは二頭立てである(p.213)。ほう、二頭立てでいけたのか、重いだろうに、でもまあ重すぎたらぬかるみに沈むよな、と思っていたら、作者がちゃんと説明を書いてくれていた。 

  • 新大蟻食の生活と意見:これまでのお話 (これまでのお話(5) 2004/9) 「関係のない話だが、君はタチャンカを知っているか!」…以下、『ミノタウロス』執筆に際してタチャンカについて調べたと思しき話が続く。
ソ連時代のタチャンカのアニメ。機関銃の音が生々しい。たくましく猛る馬、行進……。

そして『ミノタウロス』を読み終えたときには頭の中にはウクライナの大地が構築され、そこにはそれら乗り物が縦横無尽に駆け巡っているだろう。宮崎駿のアニメ作品にも似た水平と垂直を合わせた空間全体の動きの妙味。横だけでなく縦の動きを入れているのだ。水平方向の移動では馬は大地を無制限に、馬車は道路に沿って。鉄道は線路に沿っておそらく直線的に。垂直方向の移動では飛行機が高低激しくかえ、宙返りなどもする……。その飛行機はプロペラ複葉機、しかも羽根が2枚であることは、p.311のウルリヒが飛行機の見取り図を描いたシーン─"翼が上下二枚なくていいのか"─ではっきりわかる。(p.233〜で奪う飛行機について、『参考にしたのはBristol F.2B』とのことである。 )

また、ウルリヒが描いた見取り図、「三角形の翼が小さく張り出して機体とひと繋がりになり、真横からでは小魚のような曲線を描いていた」飛行機は第二次世界大戦末期に設計・試作されたステルス戦闘機「ホルテン Ho229」によく似ている。ウルリヒはなぜこの未来に登場する飛行機を描き得たのか。静謐ななか、ヴァシリとウルリヒの息づかい、声が聞こえるようだ。この小説の中でも非常に美しく、彼らの未来の「悲劇」を強く予感させる切実なシーンである。

私がなぜ「ホルテン Ho229」と推察したのか、このシーンについての解釈、感情

  • 私は逆にその時点から先の未来の飛行機なんだなと考えて(『月まで飛ぶロケットに似たそれは』『ウルリヒが口にした速度はぼくには想像もできないものだった』)、「真横からでは小魚のような曲線を描いていた」p.311 とあるので
  • ヴァシリが「月まで飛ぶロケットに」p.311と言っているからには、ヴァシリは、そしておそらくウルリヒも、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』やジュワフスキなど十九世紀から二十世紀初頭の科学小説を読んでたんだと思います。『月世界旅行』の映画も見てるかも
  • で、ウルリヒについてはその時代と彼の教養・階層を考えるとたぶん読んでいたと思うんですが、それとは関係なく、
  • ウルリヒならヴェルヌなどの科学小説を知らなくても彼自身の力で未来に出現する様な飛行機を描き得たと私は考えます。彼の叔父はたいそうな技術発明家であってそこに入り浸っていたのですから天性の素質素養は十分あったでしょうし
  • …そのウルリヒにたいして、ヴァシリのプチブル的知識人ぶり、そして未来を見せるような幻視的な美しさなど様々な含蓄のある非常に素晴らしいシーンだなあと私は思いました。

『ミノタウロス』では、円をつらぬく直線がロケット、ぬかるみから飛翔する飛行機なわけだ。で、単純な読解だと足りなくて、複数の「論理」がいくつもひかれていて洗い出していけると思う。

http://twitter.com/snowystreet/status/18513692045

動きを記述する

要はこの作者は、小説で鮮やかに造形してみせ、映し出していくのだ。絵のように、映画のように。映画のように、と言ったのは、この小説が動き、うねり、スピード感のなかにあるからだ。「運動」を感じさせるからだ。音楽がそうであるように、静止しているときにも「静止」という動きがある。

時間感覚のコントロール

さらに佐藤亜紀は小説『ミノタウロス』の中で、空間や実際の動きのみならず、時間感覚─読み手に感じさせる速度─もコントロールしている。コントロールできているのは直接、乗り物や経過について適切な記述をしているからだ。にとどまらず、小説のテクニックとして、違う種類の記述をいくつも組み込んでいることによっている。

まずこの小説は読み始めればすぐ分かるように、主人公ヴァシリの一人称、彼の語りで書かれている。そして会話においても鴻巣氏の書評の指摘通り、「 」鉤括弧で括られているものがない。その特徴からしても、『小説のストラテジー』の第8章「ディエーゲーシス/ミメーシス 声の様態に関するタクティカルな考察」に書かれていることが見事に実践されているのを見て取れる。

今日、ミメーシス、という場合には、鉤括弧で括って他者の声を語りの声に交える記述の様態を指すこともありますが、模倣──再現的な描写を指すことの方が多いかもしれません。

小説のストラテジー』(ちくま文庫Kindle版)位置No.1994

対するディエーゲーシスという場合には、プラトンが書き直して見せたような語り手自身の言葉による総括的な記述を指します。

小説のストラテジー』(ちくま文庫Kindle版)位置No.2003

優劣の問題ではない、とお断りしておきましょう。当然、選択の問題でもありません。我々は両方の世界に生きており、我々の経験は両方を含んでいます。小説を書くことになる時にはどちらかに重心を寄せることになるかもしれませんが、書かれたものが少しでも書き手の経験する現実に似ていたとしたなら、書かれていない方の世界も必ずその裏側に存在し、折にふれて露呈してくる訳です。その時、ミメーシス的な記述はディエーゲーシス的な記述に、ディエーゲーシス的な記述はミメーシス的な記述に、柔軟に映って行く訳です。

小説のストラテジー』(ちくま文庫Kindle版)位置No.2069

即ち、ミメーシスによる記述は、多くの場合、ディエーゲーシスによる記述より、読み手の感じる速度が遅いのです。

ということは、ミメーシスとディエーゲーシスを併用することによって、書き手は読み手の感じる速度をある程度まで操作できることになります。

小説のストラテジー』(ちくま文庫Kindle版)位置No.2145

ただし、こうした記述の様態の交錯そのものは、ソルジェニーツィンに限らず、言語によるフィクションを書く技術の基本でもあります。速度の変化は読み手の快感に直接に繋がっていくものです。もちろん、記述内容や僅かな句読点の打ち方、文章の切り方等でも速度に変化を持たせることは可能ですが、最も即物的には、ディエーゲーシスとミメーシスを併用することによって実現可能です。

かくして、小説とは複数の声が交錯する場であると同時に、複数の世界、複数の意識、複数の時間が交錯する場としても構成される訳です。

小説のストラテジー』(ちくま文庫Kindle版)位置No.2173

…このようにして佐藤亜紀は『ミノタウロス』のなかで色彩、空間、速度を操り、読み手は正確に何が描かれているのか脳内に─絵が巧みであれば書き起こして─再現できるだろう。乗り物が動き回り、登場人物たちはウクライナの大地の上に息づく。小説の記述がもたらすうねり、ビートを感じる快感も味わえる。

主人公ヴァシリの一人称

ヴァシリの一人称の語りでは、基本的にはヴァシリが見ている、知っている世界しか語れない。それがこの小説に必要だったスタイルで、一人称で語ることによって小説が見通しのきかないもの……成熟していてもまだ未成年、ウクライナの外に出たことのない若者の目を通してしか情勢や歴史を語れぬ、ゆえの混沌、彼の視界の必然的な狭さとそれ故の割り切れなさ。彼は、「地主の坊ちゃま」「若様」から「兵隊さん」(p.341)として泥濘にまみれ地べたを右往左往するものなのだ。他者の声、会話として書いている箇所でも、彼らも会話相手のヴァシリの目を通した姿でしか描き出されていないはずだ。ヴァシリのフィルターを通してヴァシリが彼らをどう見、ヴァリシ自身が自分をどう見ているか……他者からどう見られたいか、自分をどう捉えたいかに依っている。ヴァリシがヴァシリ自身を外から見ているのは小説の最後しかないはずだ。

以下、他に気になること

  • ヴァシリ自身の感情的な言葉は息が短い文章になる(読点が増える)
  • 「回想録」としての読み。というかヴァシリの回想録では。
    • 西洋の伝統の
      • 『ハドリアヌス帝の回想』の読み
    • ヴァシリの感情の揺れ、読み手の感情の揺さぶり
    • 『火垂るの墓』
  • 死後?本当はいつ死んだのか?
  • p.209、客車に置き去りにされているところで実は死んでいたりはしていないか。
  • ウルリヒはポーランドのクラカウ(ドイツ語。現在はクラクフ)の出のドイツ人で、彼が国に帰るといっても第一次世界大戦後のポーランド独立などで実は簡単な問題ではなくなっている。
  • カインとアベル
    • 土に吸い込まれた血(p.322)
    • お前どっちだ、飛行機の方か。 (p.321)
    • 役立たずの方か。しょうがねえな。(p.321)
  • 繰り返される表現
    • のらくら
      • 「のらくらの国」の逆転(ミハイロフカ時代と失った後とで)
      • アイヒェンドルフ『のらくら者日記』?
    • 血溜まりを踏んだ靴、「靴の裏」を「床に擦り付けた」(p.209、p.335)
  • シェイクスピアはヴァシリにとって「のらくら」?
  • 『ミノタウロス』に登場する小説、詩、音楽などの洗い出し
  • なお「様式化、パロディ、スカース」(『小説のストラテジー』位置No.1938)といった「手の込んだ方法」も然り、使われている。
    • 新潟弁?を持ちいた「訛り」、農民言葉の表現

『ミノタウロス』から私が連想した作品群